ジンメル「よそ者論」翻訳+解説

ジンメルの短編「よそ者」の翻訳と解説を紹介します。

ジンメルは、共同体の中に完全には同化せず、一定の距離を保ちながら存在する「よそ者」という人物像を通して、人間関係・集団・孤立・客観性の問題を鋭く分析しました。

その議論は、移民や商人だけでなく、現代の都市生活者、インターネット上の匿名的関係、そして「どこにも属せない感覚」を抱える人々にも重なって見えます。

本記事では、「よそ者」の日本語訳を掲載するとともに、現代社会との関係も踏まえながら内容を簡単に解説していきます。

「よそ者」の日本語訳

よそ者の定義

放浪とは、空間上のいかなる特定の地点からも解放されることであり、それゆえある一点に固定・拘束されることとは概念上正反対のものである。社会学的な形式としての「よそ者」は、いわばこの相反する二つの特徴が同居している存在と言えるだろう。

しかしこの現象もまた、空間的な関係が人間関係の条件であると同時に、その象徴にすぎないことを示している。

ここでいう「よそ者」とは、一時的に通り過ぎる旅人ではない。むしろ、外部からやって来ながら、その共同体の中に住み続ける人のことである。

よそ者とは、共同体の中に定住していても、なお「いつでも去ることができる」という自由を残している存在なのである。

よそ者はある特定の空間的な集団、あるいは空間的な境界に似た境界を持つ集団の中に定着している。

よそ者の立場は、彼がもともとその共同体の成員ではなかったという点から規定されている。だから彼は、その共同体の内部だけからは生まれないような性質や視点を持ち込む存在となる。

解説

ジンメルは、「よそ者」を、共同体の内部に住みながらも、完全にはそこに属していない存在として説明しています。

よそ者は単なる旅人ではなく、共同体に定住しています。しかし同時に、「いつでも去ることができる」という自由や距離を保っており、そのため内部者とは異なる立場にあります。

この「内部にいながら外部でもある」という二重性によって、よそ者は共同体に新しい視点や性質を持ち込む存在となります。

よそ者における「近さ」と「遠さ」の関係

あらゆる人間関係には、「近さ」と「遠さ」の両面が含まれている。だが「よそ者」という存在においては、この二つが特有の仕方で結びついている。すなわち、よそ者との関係において「距離」とは、近くに存在しながらなお遠いことであり、「異質性」とは、本来は遠い存在でありながら、現実には近くにいることを意味している。

解説

ここでは、よそ者の2つの相反する特徴が指摘されています。重要な部分です。

① 近くにいるのに遠い存在(距離)

よそ者は共同体の内部で生活しています。毎日顔を合わせ、経済活動や会話にも参加しています。しかし、血縁・地縁などを共有していないため、「完全な仲間」にはなりません。したがって、空間的には近くても、社会的には距離を保った存在として経験されます。

例:外国人が町に住んでいるが、住民には「よそ者」のまま。

②遠くにいるのに近い存在(異質性)

よそ者は本来、その共同体の外部に属する存在です。しかし現在は共同体の内部に入り込み、日常的関係を結んでいます。つまり、本来は「遠い」存在であるにもかかわらず、実際には近くで生活しています。

例:まったく異なる文化を持つ人が、自分の隣人になっている。

この「本来は遠い存在なのに近くにいる」という状態が、よそ者性を形作っています。

よそ者とは共同体の内部にいる存在

よそ者であるということは、本来きわめて積極的な関係であり、特定の関わり方である。

シリウス星人のような存在は、「よそ者」とは呼べない。なぜなら、よそ者とは何らかの社会関係の中にいる存在だからである。完全に無関係な存在は、遠いのではなく、そもそも関係の外部にある。

よそ者とは、共同体の外部にいる存在ではなく、むしろ共同体の内部に組み込まれた存在である。貧困層などの様々な「内なる敵」と同じく、集団を構成する一部なのだ。

よそ者は共同体の正式な一員ではある。しかし同時に、どこか共同体の外側に立ち、それと距離を保ちながら向き合っている存在でもある。

よそ者の具体例「商人」

これから挙げる例は一部にすぎないが、よそ者とのあいだでは、人々を遠ざける要素そのものが、逆に独特の結びつきや安定した関係を作り出していることが分かる。

経済史を振り返ると、よそ者と商人はしばしば同じ存在として現れる。商人とは典型的な「よそ者」なのである。

経済が村の内部だけで完結しているなら、商人は不要である。商人が必要になるのは、共同体の外から商品を入手するときである。

生活必需品を買うために共同体のメンバー自身が外へ出て行かない限り(その場合、外部の土地では彼ら自身が「よそ者」の商人になるのだが)、商人は外部から来たよそ者でなければならない。なぜなら、共同体の内部では、誰も商人で生計を立てられないからである。

このよそ者の立場は、その活動の場に定住し、再び去っていかない場合には、さらにいっそうはっきりと現れる。多くの場合、定住が可能になるのは、交易の仲介によって生計を立てられる場合に限られる。

商業はよそ者が入り込む余地を作る

一定の経済圏が成立し、土地所有と手工業が確立されると、商人もまた社会の中で生計を立てられるようになる。

商業では取引の組み合わせを無限に広げることができるため、人間の知性は常に新しい市場や機会を発見できる。しかし、農民や職人のような生産者は移動の自由が少なく、限られた顧客層に依存しているので、そのような発展を実現するのは非常に難しい。

商業は、第一次産業よりも常に多くの人々を取り込むことができる。したがってそれは、いわば、すでに経済的地位が占められている集団の中へ「あまり者」として入り込むよそ者にとって、まさに適した領域なのである。その古典的な例が、ヨーロッパにおけるユダヤ人の歴史である。

よそ者は「土地を所有しない者」

よそ者とは、本質的に「土地を所有しない者」である。ここでいう土地とは、物理的な土地だけを指すのではない。社会の中で一定の場所を占め、そこに生活の基盤を築いている状態を比喩的に表したものである。

よそ者が親密な関係を築き、魅力のある重要な人物となったとしても、他人からなおよそ者とみなされている限り、彼は「土地の所有者」ではない。

商取引の仲介業に従事し、さらにしばしばその発展形ともいえる金融業に携わることによって、彼は特有の「移動性」を身につける。

閉ざされた集団の内部で移動性が見られる場合、そこには、よそ者の立場を特徴づける「近さと遠さの同居」が表れている。

というのも、根本的に流動的な人間は、いずれはあらゆる個人と接触を持つことになるが、親族や土地、仕事といった結びつきを通じて、特定の誰かと根本的につながるわけではないからである。

よそ者が持つ「客観性」

このような関係のあり方は、よそ者が持つ「客観性」にも表れている。

よそ者は、その集団に固有の価値観や慣習に根底から深く関わっているわけではない。そのため、それらを比較的「客観」的な立場から見ることができる。

しかし客観性とは、単に冷静であることや距離を取ることではない。それは、距離と近さ、無関心と関与から成り立つ独特の構造なのである。

ここで私が念頭に置いているのは、「支配と従属」の章で論じた、集団内のよそ者がしばしば置かれる優位な地位のことである。その最も典型的な例は、イタリアの都市が裁判官を外部から招いていた慣習である。というのも、その土地の人間は皆、親族や派閥の利害のしがらみに縛られていたからである。

よそ者の客観性には、先に触れた現象も関係している。もっとも、それは主として(ただしそれだけに限らないが)、やがてその場を去っていくタイプのよそ者に当てはまるものである。

それは、人々がよそ者に対して驚くほど率直に心を開くことが少なくない、という事実である。その打ち明け話は、ときには告解にも似た性格を帯びており、もっと親しい間柄の相手であればかえって慎重に隠されるような内容である。

客観性とは積極的で独自のあり方をもった参加

客観性とは、決して「関わらないこと」を意味するのではない。そもそも不参加という状態は、主観的な関係にも客観的な関係にも属していない。客観性とはむしろ、積極的で独自のあり方をもった参加なのである。

これは、理論的な観察における客観性について考えれば分かりやすい。客観的な観察とは、精神が物事をただ受け取るだけの白紙のような状態になることではない。そうではなく、精神がそれ自身の法則に従って十分に働くことである。

そしてその結果として、偶然の偏りや思い込みによる強調が取り除かれる。そうした個人的・主観的な偏りがあると、同じ対象を見ても人によってまったく異なる姿に映ってしまうからである。

客観性は、ある意味では「自由」と言い換えることもできる。客観的な人は、目の前の事柄を知覚し、理解し、評価する際に、その判断を偏らせるような特定の利害関係やしがらみに縛られていないからである。

よそ者の客観性の危険性

しかし、よそ者が親密な関係さえも鳥瞰的な視点から眺め、それに接することを可能にするこの自由は、多くの危険な可能性を含んでいる。

あらゆる種類の反乱や騒乱において、攻撃を受ける側は昔から、「今回の騒ぎは外部の者による扇動の結果だ」と主張してきた。つまり、よそ者や外部から送り込まれた使者・扇動者が人々をけしかけたのだ、というのである。

この主張に真実が含まれているとすれば、それは、よそ者の特徴的な立場を極端な形で描いたものにすぎない。よそ者は、実践的にも理論的にもより自由であり、偏見に左右されずに状況を眺めることができる。彼が物事を判断する際の基準は、より普遍的で客観的な理念に基づいている。そして、その行動は習慣や伝統、前例に縛られない。

よそ者との関係は一般的な共通点(共通の職業や立場、国籍など)に基づきやすい

最後に、よそ者に客観性をもたらす近さと遠さの独特なバランスは、人々がよそ者と結ぶ関係が、抽象的なものになるという点にも表れている。

つまり、よそ者とのつながりは、一般的な共通点(共通の職業や立場、国籍など)に基づいている。これに対し、親しい人々との関係は、誰にでも当てはまるような属性ではなく、共に過ごした経験や固有の事情など、その人たちだけに特有の共通点に支えられているのである。

実際、人と人との関係は、どのようなものであれ、多かれ少なかれこのような仕組みによって成り立っている。

人間関係には、共通する特徴がある一方で、違いもある。その違いが関係に影響することもあれば、違いがあっても影響しないこともある。そのため、人間関係は、共通点だけでは説明し尽くせない。

というのも、共通の特徴が人間関係にどのような影響を与えるかは、その特徴が当事者同士だけに共有される特別なものなのか、それとも集団や類型、さらには人類一般にも広く見られる一般的なものなのかによって左右されるからである。前者であれば、その特徴はその関係に固有の意味を持つが、後者であれば、それは当事者だけに特有のものとは感じられない。

後者の場合、その共通点は多くの人々に共有されるものであるため、その共通点が二人の関係に与える特別な意味は、集団が大きくなるほど小さくなっていく。

共通点があることは人々を結びつける。しかし、その共通点が誰にでも当てはまるような一般的なものであれば、それは特定の相手との特別な絆にはならない。なぜなら、同じ共通点を持つ人は集団の外にも数多く存在するからである。

これもまた、人間関係の中に近さと遠さが同時に存在する一つの形である。共通点が広く一般的なものであればあるほど、それによって生まれる親しさの中には、どこか距離を感じさせる要素も入り込む。つまり、「この相手でなければならない」という必然性が弱まり、「たまたまこの人と結びついているだけかもしれない」という感覚が生じるのである。その結果、人と人とを特別に引き寄せる結びつきの力は弱まってしまう。

私が思うに、よそ者との関係では、このような性質がとりわけ強く現れる。その関係は、その人とだけ共有される個別的な要素よりも、誰とでも共有しうる一般的な共通点によって支えられている面が非常に大きいのである。

よそ者は、私たちと同じ国に属していたり、同じ社会的立場や職業にあったり、あるいは同じ人間であったりするという共通点を感じるかぎり、私たちにとって身近な存在である。

しかし、その共通点が私たちと彼だけのものではなく、多くの人々にも当てはまる一般的なものであるかぎり、彼は同時に私たちから距離のある存在でもある。というのも、私たちを結びつけているものは、彼個人との特別なつながりではなく、誰とでも共有しうる共通性だからである。

一般的な共通点が親密な関係を壊す

この意味での「異質性(多くの人に当てはまる共通性)」は、最も親密な関係の中にさえ容易に入り込む。

恋に落ちたばかりの頃、人は自分たちの関係を一般的なものだとは考えない。恋人たちは、自分たちの愛はいままでに存在したことがないようなものであり、愛する相手も、その相手に対して抱く感情も、ほかの誰とも比べられない特別なものだと考えるのだ。

関係が「よそよそしくなる」とは、それが原因なのか結果なのかを決めるのは難しいが、通常、この「二人の関係が他にはない特別なものだ」という感覚が消えたときに現れる。

2人の関係の大切さを疑う心は、次のような考えと結びついている。すなわち、自分たちの関係も結局は人間なら誰もがたどる運命の一つを生きているにすぎず、自分たちが経験していることも、これまで何千回となく経験されてきたことなのだ、という考えである。

もし偶然にこの特定の相手と出会っていなかったとしても、自分たちは別の誰かに対して同じように恋愛感情を抱いていただろう、ということである。

おそらく、このような感情は、どれほど親しい関係にも多少は存在している。というのも、二人に共通しているものは、決してその二人だけのものではなく、それより広い一般的な共通性の一部であり、その中には他の多くの人々との共通点も含まれているからである。

たとえそうした可能性が実際にはほとんど起こらず、普段は意識されることもなくても、ときどき影のように、言葉にしにくい不安のように、二人の間に入り込んでくる。そして、その漠然とした感覚がはっきりした形をとったとき、それは嫉妬と呼ばれるのである。

ある場合には、おそらく最もよく見られ、しかも最も乗り越えがたい種類の隔たりは、互いに異なっていることや、理解し合えないことから生じるのではない。

むしろ、その隔たりは、二人のあいだにある類似性や調和、親密さが、実は二人だけの特別なものではないと感じられることから生じる。それらはもっと一般的なものであり、二人のあいだだけでなく、他の多くの人々とのあいだにも成り立ちうる。そのため、「なぜこの人でなければならないのか」という特別な必然性を、この関係に与えることができないのである。

一般的な共通点を拒絶する「よそよそしさ」

他方で、二人の共通点が、実はもっと広く一般的なものに基づいているという事実を拒絶しようとする種類のよそよそしさも存在する。

ここでは、ギリシア人と蛮族との関係が、その典型例として挙げられるだろう。つまり、本来なら人間一般に共通するものと考えられる属性を、相手には認めない場合である。

しかし、ここでの「よそ者」には積極的な意味はない。よそ者との関係は「非関係」なのである。つまりこの「よそ者」は、いままで書いてきたような、集団内のメンバーとしてのよそ者ではない。

むしろ、集団のメンバーとしてのよそ者は、一般的な共通性のみに基づく関係に特徴的であるように、近いと同時に遠い存在なのである」。

むしろ、集団のメンバーとしてのよそ者は、同じ集団に属しているので「仲間」として近い存在である。しかし、その結びつきは人間としての一般的な共通性にとどまるため、どこか距離のある「他人」でもある。

人間としての最低限の共通点はあるものの、それよりも違いのほうが意識されるとき、親しさと距離感のあいだに独特の緊張関係が生まれる。

しかし、外国人やよそ者の場合、その人が「自分たちと違う」と感じられる理由は、その人特有の個性ではない。単に「別の土地や集団の出身である」という点にある。そして、その特徴はその人だけのものではなく、多くのよそ者に共通するものである。

そのため、人々は「よそ者」を一人の個人として見るのではなく、「外から来た人」という類型の一員として見る。つまり、その人自身ではなく、「よそ者」という属性によって理解するのである。

このような「よそ者を個人ではなく一つの集団として扱う考え方」は、たとえば中世のフランクフルトなどでユダヤ人に特別な税が課されていたことにも表れている。

キリスト教徒の市民は、お金持ちになれば税金が増え、貧しくなれば税金も減った。しかし、ユダヤ人は財産の多少に関係なく、一人ひとり同じ額の税を払わされていた。

税額が一律だったのは、ユダヤ人がそれぞれの財産や能力を持つ個人としてではなく、単に「ユダヤ人」という集団の一員として扱われていたからである。

ユダヤ人は、納税者としてではなく、まず「ユダヤ人」という集団の一員として扱われた。そのため、税の負担も個人の事情に左右されない固定的なものとなっていた。

よそ者はもともとその集団の出身ではなく、外からやって来た存在である。しかし今では、その集団を構成する一員になっている。

集団の生活や仕組みの中には、すでに「よそ者」という存在が組み込まれている。

よそ者の立場はとても特殊で、うまく説明しようとしても、「近い存在でありながら、同時に遠い存在でもある」と言うほかない。

人と人との関係には、誰との間にも親しさ(近さ)と距離感(遠さ)の両方がある。しかし、その組み合わせ方が特殊な場合に、「よそ者」という独特の関係が生まれる。

(終わり)

参考記事:
The Stranger Georg Simmel
Georg Simmel: Soziologie Untersuchungen über die Formen der Vergesellschaftung

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